Sleeperのブログ

ネットの奥深くに眠るブログ。。。

陰の者であるという「自覚」と「逃げ」

2023年も1月が終わって2月。今月に受験を控えている。というのにもかかわらず私は今こうしてブログを書いている。学校を休んで。別に登校日ではないから欠席ではないが、各教科の先生との面談予定を全部バックれてしまった。自分が社不であるという自覚がふつふつと湧いてくる。
バックれたのは課題が全然終わらなかったから。徹夜でやろうとしたけど体が限界で、朝起きても頭が朦朧としてとても学校に行く気にはならなかった。今日は休む。さらに、明日も雪が降るから休む。そこまで決めてしまって今私は身軽であると同時に心を病んでいる。自分はダメ人間だと思ってしまう。こういうときには下を見る。未成年でタバコ吸ったり街中を騒音鳴らしながらバイク乗ったりする連中よりはマシか。しかしこの行為は何の意味もなさないことに気付く。文脈が違う。その連中は法や公共の福祉を破っているわけだが、自分の「逃げ」の行為はマナーというよりも「生きること」に背いている気がしてならない。人間はただ息を吸って吐いてれば生きている。食べて寝て、それでも生きている。しかしそれは本当に生きていると言えるのか。

子どもの頃の夢は何だっただろうか。私は漫画家。小学生の頃は、大人になれば自分の漫画が雑誌に連載されているのだろうと思っていた。しかし私は絵が上手くなかったし、練習して上手くなろうとする情熱はいつしか無くなってしまった。インターネットに出会うと、自分が到底たどり着けないレベルの絵師が多くて、尊敬の念とともに自分への諦めの気持ちが生じた。
中学生くらいで漫画家は諦めたが、自分は何らかのクリエイターにはなるんだろうと思っていた。具体的な内容は、無し。全てが曖昧、ふわふわした状態で歳を重ね、何の展望もないまま大学受験を迎えようとしている。しかし今まで何の責任も持たずに生きていた自分が、急に今後の人生を左右するイベントと対峙することが本当に辛い。急に話がデカい。とりあえずあと1ヶ月で向こう1年の予定は変わるわけだ。
夢を失ってから主体性が無くなった。
全てが流されるまま。今自分にある主体性は、1人でカラオケすることと、ここでブログを書くことぐらい。その2つは誰に言われた訳でも無くやっているが、他は違う。誰かに言われ、誰かの期待に応えようとして生きていた。部活だって勉強だって日々の生活だって。Youtubeを見ることは依存であり、そこに主体性は無い。自分の頭や体
を自ら使っている気がするのはブログかカラオケぐらい。

私は陽キャ陰キャかで言えば陰キャである。昔はもっと明るかったしハツラツとしていた。しかし中学で私は孤独になり、若干のイジメを受け、「出る杭は打たれる」ことを知ってしまい、自分の内に篭もるようになり、ネットに出会い、ラジオに目覚めて、ロックに目覚めて。イジメもすぐに収まったし中学高校と楽しい日々を送っていたはいたが、どうしてもその頃に出来上がった陰の価値観を拭い去れない。

陰とは弱者であり、卑屈な精神であり、居心地の良い場所であり、遅効性の毒である。

これいいな。もう一回言おうか。

陰とは弱者であり、卑屈な精神であり、居心地の良い場所であり、遅効性の毒である。

これはいい。

自分が「陰キャ」だと自覚することで、人は生きやすくなる。陰は「居心地の良い場所」となる。社会に上手く適応でないと感じる人は、「陰キャ」というレッテルを自分に貼ることで、それに属しているという所属欲求が満たされる。承認欲求にも繋がる。そうなるとさらに「陰」の世界に踏み込むこととなる。

陰に転落するのは何かにおいて弱者だからであろう。ここでいう陰は「大人しい」ではなく、「卑屈」という要素が不可欠。陰は自分を守ろうとして攻撃力が高くなってしまった人種だ。この攻撃が能動的で物理的ならただのDQNだが、物理攻撃の出来ない弱者が虐げられると陰になる。

本当の陽キャは不満を抱えず、解消する方法が人との関わり合いだったりするが、陰キャは人との関わり合いで不満が生じているため詰んでる。だからそのネガティブな気持ちを自分の中で発酵させてどんどん卑屈になっていく。そしてその「陰」が自分の居場所になってしまう。


しかし卑屈は良くない。さらに陰キャになろうとして自分自身を虐げるようになる。私の場合、行事の後に誰とも話さず一人で帰ったり、自堕落な生活を送って「何やってんだろ俺」みたいなことをしたり。ここまで来ると陰キャというよりも「サブカル(笑)」臭くなってくる。陰キャサブカルは隣り合わせだ。そんなことして楽しいかと言われれば全然楽しくない。だが、楽しくないからゾクゾクする。ああ、機会や時間を無意味に無駄にしている、これが生きてるってこと!?

価値観がバグってる。普通の人は楽しいことをしたり何かを達成したりすることで生を実感するだろうが、私の場合は無駄や挫折、失敗で生きてると感じてしまう。それは「卑屈」から生まれる感情だと思う。幸せにしない、みたいな。

これは人生を棒に振る思考であると思う。サブカル的価値観から主体性が無くなっていることが分かる。しかしカラオケ行ったりしてる時点で本当に不幸を望んでいる訳では無い。


私の本質は「逃げ」だ。


私は嫌なことから「陰キャ」を盾にして逃げてるだけだ。「陰キャだから仕方ないね」と言って逃げ続けているだけだ。人と話したり、精力的に活動することは楽しいが労力を使う。その寸分の労力を私は惜しんでいる。少しでもキツい未来が見えた時点で及び腰。「陰キャだから仕方ないね」で終わり。隠れ蓑としては最高だが、人生においてこの論理は最低最悪だ。

長々と語ったが、陰キャはあくまで言い訳で、根底には怠惰から来る「逃げ」があると分かった。この怠惰という化け物をどうにかしないことには私は幸せな人生を送ることが出来ないだろう。緊張することや辛いことにも挑戦する気持ちで頑張らないといけない。「甘え」で生きていたが今年は甘えない。

まずは人の目を見て話せるようになりたい。