Sleeperのブログ

ネットの奥深くに眠るブログ。。。

断片的な文章、今漠然と考えてること

※この記事は書きたいことを書いています。体裁の整えられた文章が頭の中から自然に出てくるほど自分は賢くありません。しかし自分の文章を推敲しているうちに、書きたかったことがゆがめられていく気がするのです。だから、そのとき思いついたことを書きます。それが一番自分のため、もしくは自分に似た誰かのためになると思っています。

 

歌を書きたい気持ちは何か。

自分はギターも鍵盤も持ってないのにボカロ曲を作ろうとする。それでは、自分がボカロが大好きかと言われたらそういうわけでもない。

ただ自分は自分を残したいだけ、それだけなんだと思う。歪んだ自己愛の表現方法の一つにすぎない。だから音楽じゃなくていい。私は音楽が大好きで、よく聴いている。でも、音楽を生み出すのは難しい。そこにむず痒さを感じる。

こういう人間は世界にごまんといて、似たようなことを考えている人間もごまんといて、結局自分は他人の類似にすぎないと思うと悲しくなる。

 

自分は邦ロックが好きで、朝日廉が好きで、星野源が好きで、現実が嫌いで、でも好きで、そういう人間です。結局は現実を生きていかなければいけない。現実逃避はすればいい。したいだけすればいい。でもそれは自分が望んでいることではない。最終的には現実と向き合わなければいけない。

 

理想に生きていたいと願い続けるのは、美しく見えて美しくないのではないか。揺らいでる。無機質性に美を感じている自分と、泥臭さこそ人間の美であると感じる自分。

 

自分の感情を誰かと共有したい。自分は寂しい人間で、世界には類似した人間が大量にいるはず、なのに、自分は結構他人と違う。きっと、他人も結構他人と違う。それが悲しい。ソウルメイトが欲しい。それは親友とは少し違うと思う。ありがたいことに友達はいる。親友といえる友達もいる。それは感謝しているし、本当に自分は恵まれていると思う。それで寂しいとか言う自分は本当に大馬鹿者だと思う。でも、自分の本心を曝け出せない感じ。この文章を誰にも見せられない感じ。ここから生まれる、解消し得ない孤独。

自分の消極性が恥ずかしいと思いながら、これを見られて関係性が変質するくらいならば自分はこんな自分を見せたくない。自分の暗い部分まで曝け出せれば、もっと強くなれると思うけど、それを曝け出すことが常にいいとは思わない。自分は本当は暗い人間かといわれるとそんなこともない。明るい部分もあれば暗い部分もある。そういう人間味を、出せない。芸人の暗い話を聞くと、ネタ中にもふと暗い話が思い出される。それを全て嫌ってるわけではないにしても、何か自分はそうなりたくない感じがある。

あんまり人間味を出せないことが悔しい。

「へ~よく考えてるんだね」とか一言も言われたくない。本当に嫌だ。考えている人間というよりは考えてない能天気な人間だと思われたい。そういう感情が渦巻く。だから寂しい。本当は考えてしまう。考えた挙句、考えないようにする。こういうことも考えないの?とか言われると、とっくの昔に考えているに決まってるだろうと思いながらも、そんなことは言えないし言いたくもない。自分は考えない。考えたくない。でも考えてしまう。悩んでしまう。ほぼ0から悩みを生み出してしまう。

 

本当に面倒くさい人間だ。誰にも自分を出せない。こういう人、他にもいると思うんだよ。裏では考えてる。

「「SEKAI NO OWARIの抱えてる闇は本当に深いんだよね」って言う人がいたけれど、本当に深い闇って他人が知る由なくないですか。」という記事があった。basement-times、昔は地下室タイムズと言われてたとか。私はほとんど更新されなくなったときにこのサイトを知った。石左氏の書く文章は本当に面白く、そして本当に性格が悪い。この記事のタイトルは結構自分の価値観を変えてしまったと思う、と完全なる他責。

実際正論である。言ってることはほとんど自明である。

でも、自分は深い人間になりたかったから、孤独になった。苦悩を共有したら、深みが出ないから。人間として深くあるため、自分は孤独になる必要があるのではないかと思った。病みとか闇とかは他人と共有するものではない、そういう考えになった。自分の中でぐるぐるさせて解消させて、確かに自分は強くなった。強く、寂しい人間になった。

 

集団は嫌いだ。

馴れ合いとか、群れとか、そういうものが嫌いで、自分は1人でどこまでも行きたいタイプだ。実際には、引きこもり気質なので、どこにも行けない。

自分は1人じゃ何にも出来ない。一人で出来ることに限界はある。本当にそうだと思う。最近星野源がsamethingとかで他人とコラボした、その真意がようやく分かったような気がする。ならsakerock復活させよう。「次は天国で」じゃないんだよ。そんなことを行ったから復活できなくなってるんだよ。当時の星野源は、個人で頑張るという決意、今までのことに対して綺麗な最終回を、とか思っていたのだろう。自分もめちゃくちゃカッコいいと思うんだけど、本当に死んでからじゃ、もう取り返しつかないよなとも思う。

一人でやることと、一人でやらないこと、バランスが大事だと思う。アリストテレスが言う中庸、のような。孤独も群れも、どっちも大切なんだよ。群れすぎは良くない、その気持ちは変わっていない。自分を見失う。でも孤独も、世界を見失う。

 

集団でいると、集団心理が働くとか。政治の話にするのも厄介だけど、ナチズムとかは集団の極致であろう。それが絶対的に悪ならば、集団も本質的に悪だと思う。集団では、ナチズムは歓迎されたのだから。

でも集団でいないと生きていけないです。この世の中。孤独ではいけないです。だから、バランスが大事。色んな集団に属することが大事、もあるけど、自分は1人の時間も大切にしたい。色んな人と関わっていきたいね。それは人脈とか、そういうことではなくて。人脈という言葉は嫌いだ。人を人として見ていない。どちらにせよ、自分のために友達付き合いをするのはそりゃそうなんだけど、自分は人を人として見たい。そして、やっぱり合わない人とは合わないよね。難しい。

 

現実に生きていかないと意味が無い。私は誰かを愛するより、誰かに愛されたい、というか、理解者と出会いたいです。引きこもりの自分を外に連れ出してくれる人。

 

現実が大事ということは、言葉が大事であるということも同じかもしれない。イデアは現実にはなくて、現実に現れるのは言葉だけ。何思っていようが、現実には現れない。頭の中は現実ではない。現実で生きていたいという気持ちが、この文章を書かせている。気持ちが文章を自分の外に連れ出してるのか、文章が自分の気持ちを現実に連れ出しているのか。

写真も同じだ。写真は見えない一瞬を固定する。見えなかった瞬間を、忘れないようにするために、写真を撮る。最近写真の重要性を想う。自分は写真を撮らないことを正義のように感じていた。なぜなら、その場を楽しむことは重要だから。消えてしまっても美しいと思っていた。それもあるけど、そればかりじゃないよな。結局消えてしまったら忘れてしまう。戻ってこない。しかも、忘れてしまうばかりでなく、その一瞬は、最初から知らなかった一瞬であるとも思う。思い出は現実じゃない。写真や言葉ばかりが現実だ。いつもそう。表現するということは、現実に生きることなのかもしれない。