Sleeperのブログ

ネットの奥深くに眠るブログ。。。

年齢を気にすることを今後はやめようと思う

タイトルの通り。年齢を気にしすぎている自分がいる。中学生の頃はこんなこと全然考えていなかったのだが、高校生になってからやけに将来への不安が募り、その結果現在ネットで活躍している人間がいつから活動を始めたかとか調べてしまうのだ。

ARuFaは中2でブログを始めたという。もこう先生は19歳で厨ポケの動画を出したという。今現在私は18歳。大学生活が始まったところであるが、夢も目標も展望もない自分に不安しかない。早く何かしなければと思っている。思っているだけ。

年齢でどうこうというのはバカバカしいような気がする。石風呂が好きすぎるあまり私は10代を神格化しすぎた節がある。「ティーンエイジ・ネクラポップ」という曲が好きすぎるのだが、それはそれ、である。10代を楽しまなきゃと思って楽しもうとするのは不純である。もっと純粋に生きていたい。

誰がいくつ上とか、誰がいくつ下とか、そんなのどうだっていいじゃないか。もちうつねさんという天才ボカロPがいる。私と同い年だ。あまりに早く大成しているように思えるが、本人は「もう自分は年老いている」という旨の発言をすることがある。十分すぎるほど若いと思うのに当の本人はもっと若さを求めている。

過去への慕情というのは人間に一生付きまとう病気なんだと思う。「昔がよかった」「10代で出したかった(キュウソネコカミ)」とかいろいろ思うことはあるだろうが、年齢を常に気にしていたら気が狂う。そんなこと気にしていても仕方ない。好きなことをやるしかない。いくつになっても大丈夫。なんとかなるし、なんともならないならなんともならない。年齢のことを気にするのはやめる。でも一年一年目標を立てて何かを達成できたらそれが一番いいだろうね~

 

恋人いない歴=年齢

恋とは何だろう。愛とは何だろう。それについてちょっと腰を据えて考えてみたい。

自分は感情が希薄だと言われたり思われたりすることが多い。確かに感情を自制している部分があると思う。私は常に何かを恐れている。いつも感情の先頭には「恐れ」がある。人に嫌われる「恐れ」、自分が疎外される「恐れ」。恐れを乗り越えるほど、自分の恋愛感情には衝動性がないと思う。

恐れを乗り越えられる、無敵になれるのは「面白いことへの興味」だと思う。面白いと思ったことはたとえ滑る未来が見えても発言してしまうし、自分が気になって「面白いことがおきそう、何か笑いの種が生まれそう」と思ったら割と自分の行動力は発揮される。でもやらなければいけないことは後回しにするし、「笑い」以外の行動についてはかなり受動的だ。まず私は恋愛について受動的。

しかしそもそも恋愛自体、私は難しく感じる。恋は盲目とはいうがあんまり盲目になった経験がない。点数をつけるわけではないが、「自分はこの人のこういう部分は好きで、こういう部分は苦手だけど、好きの感情が強いな」という風に総合評価してしまう節がある。私は誰かのファンにもなりきれない。「ここはいいけど、ここは違うな、でも自分に合ってるところが多いから好きだな」とか。

この考え方は相対的な好き嫌いの話に帰結する。しかし相対的好きで告白するとか出来ないと思う。なぜなら、その人よりもっと自分に合った人が出てきたときに、好きでい続けられる自信がないからだ。それ、浮気じゃん。そうなんですよ。まだ恋人すらいないので浮気もクソもないが、自分にはその恐れがあると思って控えている部分はある。

あと、自分は人の顔があんまり識別できないタイプで、例えば眼鏡の男は大体みんな同じ顔に見える。町ですれ違っても全然分からないと思う。だから、好きになった女の子とかでも、新しく出会った子を見て「あの子みたいだな」と思うことが度々ある。失礼すぎる。でも本当のことだから仕方ない。自分にとっての「特別な存在」に出会いたいが、なかなか難しい。

 

とツラツラ書いてきたが、そもそも私はモテない。全然モテない。親密な人間関係を作るのが苦手で、友達以上恋人未満までまずたどり着かない。友達未満ばっかり。

自分には魅力がないと思う。まず身長。さほど気にしてるわけではないが、気にしていないと言ったらウソになる。男友達とかだと身長のおかげで自分のことをすぐに覚えてくれる。顔は印象に残るタイプではないので、低身長に助けられている部分はある。でも低身長って女子にとっては魅力ないと思う。自分だったら選ばない。同じ部活でも180近くある友達は大体彼女いて、170以下の友達には誰にもいなかった。170以下でも実際には全然モテると思うが、そのレベルより自分はさらに下にいるので、もうどうしようもありません。

そのハンデをカバーできるような魅力があればいい。やっぱり筋トレした方がいいのか。運動神経0で筋肉0の私は何の運動も出来ない。低身長でも力仕事出来そうな雰囲気は醸し出していた方がいいのかもしれない。

うちの家庭はあまりスポーツに関心がなかったが、普通の人はもうちょいあるのだろうか。漫画とか読んでて「バスケしてる〇〇君かっこいい」とかいうシーン出てきたとき、私は白目を剝く。バスケしておくべきだったか。今更もう遅い。

今更もう遅いことが世の中には多い。身長も運動能力もちゃんと小さいころに伸ばしておくべきだった。こうしてなよなよした人間になった自分は結局精神的にも未熟で、他人をリードすることが出来なくなっていった。ほかの男との圧倒的実力差に怯えて萎縮する日々。自分に自信を持たないといけない。筋トレしよう

インターネットでの活動について考える

受験が終わり、東京で一人暮らしを始めた。

晴れて自由の身になったわけだが、怠惰な私は自由を与えられると逆に何も出来なくなってしまう。やらない自由を如何なる場合においても選択してしまう。

今いる大学に入学できたことは非常に幸運であり、自分は幸せ者だと思っている。でも人は満足できない生き物だ。幸せを噛みしめる暇もなく私は大きな壁にぶち当たっている。それは怠惰との闘いというより、自由との闘いだ。

何をしたって許されるように思える状況で、私は一体何をすべきなのか。分からない。分からないまま4月になった。4月1日は終わった。1日はエイプリルフールだからネットサーフィンが忙しい。今日だけ祝日だということにして、さて問題は今日からどうやって生きるか。いよいよ大学生になった。勉強してサークルしてバイトして。時間は捻出できるのか。出来る気がしない。

そんな中でさらに漠然とした、何の形にもなっていない構想というか思いがある。インターネットで何かしら作りたいという思いだ。ブログを超えた何かを作りたい。私は中学生のころからインターネットに魅入られて、ネット文化に浸かり、ネットが自分の本拠地みたいになることもあった。そうしていると自分も何かを生み出したいという気持ちが出てくる。しかし具体的に何がやりたいとかは全く決まっていない。「漠然と」している。5年早かったらVtuberになってたかもしれないが、今更やってもという気持ちはある。ネットで何をやろうと考えているうちに、自分がそれに割く時間も、自分に時間を割いてくれる人も少ない気がしてくる。

例えば今日「そういえば音MADってどうやって作るんだろう」とか思っていろいろ調べてみたが、大変に時間がかかることを知った。素材を集め、音程を調整し、動画を作り、と考えると音MADなんて簡単に作れるものではないと分かる。それを頑張る胆力が私にはなかった。

人を楽しませるためにはそれなりの労力や時間をかける必要はあると思う。頑張ろうと奮起しても、どの世界にも天才というものがいて圧倒的実力差を感じて途中で萎えてしまう。

文章を書くというのは一番タイムパフォーマンスがいいアウトプットなので私はよく行うが、これが例えばボカロとかになればもう大変。曲作って歌わせて動画作って。それでいて最低限の音楽知識がなければ形にすらならない。最近だと「おくすりのんでねよう」のもちうつねさんが同い年だと知ってひどく落ち込んだ、というか諦めた。あまりにも才能の差がある。そんなことばっかり。じゃあ自分には何の才能があるのか。

そりゃ多少は努力しなきゃ才能だって伸ばせない。しかし生まれ持ったものというのは必ずある。するとネットでの活動というものは少々無謀なもののように思える。文章を書くと同じくらいタイムパフォーマンスがいいのは配信業であろうと思うが、それはもうネットに骨うずめる覚悟じゃないと出来ないだろう。個人情報を切り売りするのと同義であるからだ。

すると、もうすることがない。ブログで愚痴書き連ねるしかやることない。ニコ動で動画つくってあげてる人を見ると「いいなー自分もこういうのやってみたいな」とか思うけど、具体的に何をしたいかはわからないし、ただ漠然とした承認欲求だけが渦巻いている。わけのわからない人間です。

こういうことを考えて日常生活に支障をきたしている。寝ようと思ったのに今パソコンを開いてこの文章を打っているのもそう。脱ぎ散らかした服と、空のペットボトルが散乱している状況もそう。ネット依存は治らない。承認欲求は膨れ上がっていくばかり。でも何かに打ち込む覚悟も、何かに秀でた才能もない。何でもない人間がネットの海に溺れていくだけ。現実世界をもっと考えなければいけない。

自分の健康状態にも少々の不安がある。脈が速い、不整脈、視力低下、虫歯、歯周病、あと普通に肥満気味。こういうことを一つ一つやっていかなければいけない。4年後には自分でお金を稼げるようになっていなければいけない。それなのに、何もできない自分がいる。大学の履修について考えることを後回しにしている自分がいる。

インターネットでの活動はいつかしたい。それが生業になってしまえば良いよなぁとかネット見てると漠然と思う。承認欲求あるし。大学の先輩はyoutuberやってて普通に顔出ししてた。ビビる。インターネットは恐ろしい場所だと思っているからそんな真似できないけど、このままだと何もせず後悔するのかもしれないな、と思う。

やらない後悔とやった後悔ならやった後悔の方がいい理論はネットには通用しないと思う。デジタルタトゥーは永遠に残る。やってしまったら元には戻らない。だから切羽詰まらない限りは「何も大きなことはやらない」スタンスを貫いていくのがいいと思う。創作物については別だけど、動画とか配信とか自分を売り物にするものについては考える必要があると思う。

地に足つけた生活をしたい気持ちと、でかいことやりたい気持ち。自分の中で葛藤がある。しばらくは地に足つけていこうと思う。

ネットで活動している人に強い憧れはある。でもその勇気は私にはないかも。

プログラミングから敗走

大学のうちに何か出来るようになっておきたいなとか思ってプログラミング勉強しようとしたけど、もっと出来る人がいると思うとやる気無くなってしまった。

代わりがたくさんいる筆頭かと思って、これに時間割くのはやめようと思った。

必要なら就活始まってからやればいい(多分遅い)。学生のうちはプログラミングとか実務的なことではなくもっと本を読んだり映画を見たり漫画読んだりに時間を割いた方がいいと思った

さよならの季節

私がよく聴くアジカンに「ソラニン」という曲がある。一部歌詞を抜粋する。

たとえば ゆるい幸せがだらっと続いたとする
きっと悪い種が芽を出して
もう さよならなんだ

今、自分が置かれている環境はまさに「ゆるい幸せ」で溢れている。それは、生まれた場所でずっと成長して今に至るという安心感であったり、ネット文化に触れて馴れ合って生まれる仲間意識であったり。
楽しい時間を過ごせたと思う。それと同時に、変わらなくてはいけないとも思う。

この春、私は大学に進学する。いや、浪人するかもしれない。しかし間違いなく言えるのは、否応無しに周りの環境が変化するということだ。

私は怠惰という病に罹っている。この病は恐ろしいもので、私の大学受験を失敗させた。まだ合否は分からないが、「最後まで頑張れなかった」時点で失敗なんだと思う。「どうにかなる」「なんとかなる」で生きてきた自分であったが、急に真正面が現実が立ち塞がった。

「現実を見ろ」

過去問を解いて先生に添削してもらう形で受験勉強を進めた。やり進めていくうちに全く実力が足りていないことが分かってきた。「どうにかなる」で後回しにしていた現実が自分の首を絞める。息が出来なくなった私は、2月の中頃に学校を休んだ。寝てばかりで勉強をしない日々が続いた。救いはスマホだった。スマホを開けば受験関係無しに楽しい世界が広がっていた。楽しい。勉強なんかクソ喰らえ。楽しい。楽しい。

木曜、金曜と学校を休み、土日。月曜からは学校に行くと親に約束していたため、日曜は溜めていた過去問をやらなければならなかった。辛い。出来ない。苦しい。スマホに逃げる。楽しい。でもそれではいけない。勉強。辛い。やめたい。スマホ。楽しい。気が付くと日が暮れていた。まだ過去問が終わっていない。現実がまた目の前を覆う。激しい自責の念に駆られる。私はスマホを手に持って、思い切り壁に投げつけた。半狂乱だった。壁に小さな穴が空いた。そこで私は冷静になった。

全部自分が悪いんだ。スマホに逃げた自分が悪いのであってスマホが悪いわけじゃない。まして部屋の壁には何の罪もない。それなのに私はスマホを投げつけて穴を空けた。一度空いてしまった穴はもう元には戻らない。自分の行動に後悔したが、過去は変えられない。

もうそれから後は何も考えられなかった。自分の行動によって現実が揺れ動く、その激しさについていけなかった。目まぐるしい日々の中、心に静穏を保つことが出来なかった。ただ流されるがまま生きた。過去問は時間を測って解いたことは無かった。出来ないことを誤魔化していた。本番なら「なんとかなる」と自分自身に思い込ませていた。

なんともならなかった。

それは前期試験の1日目。数学で私は半分しか解けなかった。例年の傾向ならそれで十分なのだが、これは易化だと解いている最中に確信した。半分しか解けずに軽い絶望を抱えたまま、ホテルに帰ってTwitterを開いた。検索すると皆が「易化」と言っている。「これは満点が続出する」というツイートもあった。血の気が引いた。親に今日の出来について聞かれる。
やっちゃったわ、うわぁー浪人かなー、とか笑って誤魔化す。そして夕飯を外で食べてホテルに帰って部屋で一人になると、ベッドに倒れ込んでそのまま動けなくなった。現実を受け入れられなかった。苦しい。惨めに涙を流し、2日目のことなんて考える余裕は無かった。

今まで「なんとかなる」でなんとかなってきた現実が、どうにもならなくなった。

これは初めての経験だった。人生の岐路ってこういうことなんだと1日目が終わってようやく気付いた。遅い。遅すぎた。気付いた頃にはもう後の祭りだった。
2日目の試験も終わり、そのまま卒業式をして、そのまま今に至る。


自分を変えたい。

怠惰な自分を捨て去りたい。


今までの自分と決別して、新しい自分になりたいのだ。培ってきた価値観や見てきた世界とか全部忘れてでもいいから生まれ変わりたい。
今生まれ変わらなければ、ずっとダラダラ生きてんだか死んでんだか分からない状態で、ただ存在する人になってしまうと思う。
私は努力ができない人間だった。だけどそれを本気で変えようと思っている。怠惰という病に打ち勝たない限りは、今後の将来に希望が持てない。


「人生、今が楽しければよし!」みたいな生活を送ってきたが、それは怠惰だ。自分を誤魔化しているだけだった。そのスタンスで生きてきた結果がこれだ。辛い。みんな受験勉強やりきった感じ出してる。「これだけ頑張ったから悔いは無いです!」みたいなこと自分だって言いたかった。悔いしかない。努力しないと成果は得られない。他の人にとっては当たり前のことかもしれないが、今まで何となく出来ちゃったおかげで今の自分がいる。だから根本から変える必要がある。

今までの自分との別れ。
新しい自分との出会い。
春は別れと出会いの季節。
今が自分の転換点だと思って、「現実」から逃げずに向き合っていきたい。

 

Sleeperアカウントもしばらくお休みします。ネットでの活動自体お休みにしようと思っています。受験を通して、現実逃避してるだけでは前に進めないと思い知らされました。またいつの日にか戻ってくると思うので、それまでお元気で。

陰の者であるという「自覚」と「逃げ」

2023年も1月が終わって2月。今月に受験を控えている。というのにもかかわらず私は今こうしてブログを書いている。学校を休んで。別に登校日ではないから欠席ではないが、各教科の先生との面談予定を全部バックれてしまった。自分が社不であるという自覚がふつふつと湧いてくる。
バックれたのは課題が全然終わらなかったから。徹夜でやろうとしたけど体が限界で、朝起きても頭が朦朧としてとても学校に行く気にはならなかった。今日は休む。さらに、明日も雪が降るから休む。そこまで決めてしまって今私は身軽であると同時に心を病んでいる。自分はダメ人間だと思ってしまう。こういうときには下を見る。未成年でタバコ吸ったり街中を騒音鳴らしながらバイク乗ったりする連中よりはマシか。しかしこの行為は何の意味もなさないことに気付く。文脈が違う。その連中は法や公共の福祉を破っているわけだが、自分の「逃げ」の行為はマナーというよりも「生きること」に背いている気がしてならない。人間はただ息を吸って吐いてれば生きている。食べて寝て、それでも生きている。しかしそれは本当に生きていると言えるのか。

子どもの頃の夢は何だっただろうか。私は漫画家。小学生の頃は、大人になれば自分の漫画が雑誌に連載されているのだろうと思っていた。しかし私は絵が上手くなかったし、練習して上手くなろうとする情熱はいつしか無くなってしまった。インターネットに出会うと、自分が到底たどり着けないレベルの絵師が多くて、尊敬の念とともに自分への諦めの気持ちが生じた。
中学生くらいで漫画家は諦めたが、自分は何らかのクリエイターにはなるんだろうと思っていた。具体的な内容は、無し。全てが曖昧、ふわふわした状態で歳を重ね、何の展望もないまま大学受験を迎えようとしている。しかし今まで何の責任も持たずに生きていた自分が、急に今後の人生を左右するイベントと対峙することが本当に辛い。急に話がデカい。とりあえずあと1ヶ月で向こう1年の予定は変わるわけだ。
夢を失ってから主体性が無くなった。
全てが流されるまま。今自分にある主体性は、1人でカラオケすることと、ここでブログを書くことぐらい。その2つは誰に言われた訳でも無くやっているが、他は違う。誰かに言われ、誰かの期待に応えようとして生きていた。部活だって勉強だって日々の生活だって。Youtubeを見ることは依存であり、そこに主体性は無い。自分の頭や体
を自ら使っている気がするのはブログかカラオケぐらい。

私は陽キャ陰キャかで言えば陰キャである。昔はもっと明るかったしハツラツとしていた。しかし中学で私は孤独になり、若干のイジメを受け、「出る杭は打たれる」ことを知ってしまい、自分の内に篭もるようになり、ネットに出会い、ラジオに目覚めて、ロックに目覚めて。イジメもすぐに収まったし中学高校と楽しい日々を送っていたはいたが、どうしてもその頃に出来上がった陰の価値観を拭い去れない。

陰とは弱者であり、卑屈な精神であり、居心地の良い場所であり、遅効性の毒である。

これいいな。もう一回言おうか。

陰とは弱者であり、卑屈な精神であり、居心地の良い場所であり、遅効性の毒である。

これはいい。

自分が「陰キャ」だと自覚することで、人は生きやすくなる。陰は「居心地の良い場所」となる。社会に上手く適応でないと感じる人は、「陰キャ」というレッテルを自分に貼ることで、それに属しているという所属欲求が満たされる。承認欲求にも繋がる。そうなるとさらに「陰」の世界に踏み込むこととなる。

陰に転落するのは何かにおいて弱者だからであろう。ここでいう陰は「大人しい」ではなく、「卑屈」という要素が不可欠。陰は自分を守ろうとして攻撃力が高くなってしまった人種だ。この攻撃が能動的で物理的ならただのDQNだが、物理攻撃の出来ない弱者が虐げられると陰になる。

本当の陽キャは不満を抱えず、解消する方法が人との関わり合いだったりするが、陰キャは人との関わり合いで不満が生じているため詰んでる。だからそのネガティブな気持ちを自分の中で発酵させてどんどん卑屈になっていく。そしてその「陰」が自分の居場所になってしまう。


しかし卑屈は良くない。さらに陰キャになろうとして自分自身を虐げるようになる。私の場合、行事の後に誰とも話さず一人で帰ったり、自堕落な生活を送って「何やってんだろ俺」みたいなことをしたり。ここまで来ると陰キャというよりも「サブカル(笑)」臭くなってくる。陰キャサブカルは隣り合わせだ。そんなことして楽しいかと言われれば全然楽しくない。だが、楽しくないからゾクゾクする。ああ、機会や時間を無意味に無駄にしている、これが生きてるってこと!?

価値観がバグってる。普通の人は楽しいことをしたり何かを達成したりすることで生を実感するだろうが、私の場合は無駄や挫折、失敗で生きてると感じてしまう。それは「卑屈」から生まれる感情だと思う。幸せにしない、みたいな。

これは人生を棒に振る思考であると思う。サブカル的価値観から主体性が無くなっていることが分かる。しかしカラオケ行ったりしてる時点で本当に不幸を望んでいる訳では無い。


私の本質は「逃げ」だ。


私は嫌なことから「陰キャ」を盾にして逃げてるだけだ。「陰キャだから仕方ないね」と言って逃げ続けているだけだ。人と話したり、精力的に活動することは楽しいが労力を使う。その寸分の労力を私は惜しんでいる。少しでもキツい未来が見えた時点で及び腰。「陰キャだから仕方ないね」で終わり。隠れ蓑としては最高だが、人生においてこの論理は最低最悪だ。

長々と語ったが、陰キャはあくまで言い訳で、根底には怠惰から来る「逃げ」があると分かった。この怠惰という化け物をどうにかしないことには私は幸せな人生を送ることが出来ないだろう。緊張することや辛いことにも挑戦する気持ちで頑張らないといけない。「甘え」で生きていたが今年は甘えない。

まずは人の目を見て話せるようになりたい。

配信欲求と見栄を張る気持ちと完璧主義とサブカルへの無知と健康への危機感と焦燥感とこの1年

もうなーんにもやる気しなくなってしまって心がぽっきり折れてしまった。受験の真っ最中ではあるが最早何も気乗りしない。でもそんな中でも進まなきゃ何も変わらないと思い、一旦自分の気持ちを整理したいと思って色々した。
まずTwitterアカウントを整理した。どうしても私はネット上で色々なことをやりたくなってしまい、無駄にアカウントを作ってしまう。作ってろくに使わず放置。それはやめよう、地に足をつけようと決めてSleeperというアカウントを始めたのに、同じことを何度も繰り返してしまう。これは病気だから仕方ない。好奇心ばかりで継続力がまるでない。いつものことだ。
それで、今までに作ったアカウントでまだ消せていないアカウントがあるのでは無いかと思って捜索を始めた。メモ帳アプリとかにヒントが残っているかなと思ったら、「にじさんじ」についてのあれやこれが書いてあるメモを発見。そのメモは昨日の自分が書いたようなメモだなと思い、日付を見たら1年前のメモだった。怖くなった。血の気が引いた。その瞬間、1年が消えたと思った。私は2022年で何も成長できていなかった。この感覚は今までには感じたことのないものであった。
今まで自分の創作物とか文章を読んでいると「成長したな」とか「鈍くなったな」とか「趣味が違うな」とか感じ方は様々でも、「違う自分」がそこにはあった。必ず何かしらの点で成長していた。しかしそのメモから自分の成長は全く感じられなかった。鏡写しの自分がそこにいた。
今まで好奇心ばかりで継続力がないと思っていた。ただこの1年はその好奇心すら削がれていたのではないか。「にじさんじ」が本当に好きで推し活やらファンとの交流やらが出来ていれば何の問題もない。ただ1人で惰性でYoutubeを見続けていたことの証明がなされたことが問題なのである。2022年は恐ろしい1年だったかもしれない。いや既に2021年からVtuberは見てたけど、その頃はここまで身が入ってなくて他のことにも興味関心があったと思う。
怠惰が悪化している。そう感じてならない。今までも散々私は怠惰であった。ただ、何かを始めようという活力だけはみなぎっていた。しかしそれも去年の自分には無かった。

ネットに入り浸りすぎて、私の興味関心も完全にインターネット寄りになってしまった。今考えていることを正直に話すと、ツイキャスがやりたい。今の家の状況では、というか自分の置かれた「受験生」という状況ではネットで話すのは出来ないことなのだが。「一人でなにを喋ってんだ」と言われること間違いなし。ただ配信がやりたい。というのは、どうしても人の配信を見てると自分も喋りたくなってくる。なんなら自分の方が上手くできるのではないかとすら思えてくる。ツイキャスじゃなくてもいい。ニコ生でもYoutubeLiveでも、何か配信がしたい。そんな欲求がふと湧き上がって私はまた新しいTwitterアカウントを作ろうとしたのである。で思いとどまって今ここにいる。どうして新しく始めようとする。0から。リセット依存の私は何度でも0からやり直そうとする。良くない。(·へ·)ヨクナイ!(←これは今「良くない」と打ったらsimejiの変換予測に出てきたので使ってみた。かわいい)
何か新しいことを始めるのは好きで、熟してきたら捨てる、みたいなことばかりしてる。でも人間のリアル世界で過去の自分をまじまじと見られることは無いけど、ネットではそれが平然としてなされるから仕方の無いことなのかもしれないね、とか言ってお茶を濁す。皆はどうしているのかな。リア垢も今は鍵垢1つだけど公開垢も作ろうかよく悩む。でも人はそんなにいくつもアカウントを運営することは出来ない。よくよく考えてみると、リア垢を2つも作る理由は「公開垢にしてバズりツイートして自分の友達に自慢したい」というゲスな欲求だけである。私の場合は。少なくとも外と繋がりたいだけならリア垢でなくていい、つまりこのアカウントでいいのだから。
自分の承認欲求は回りくどい形でやってくるから、それを自分自身で視認することが難しい。承認欲求全てを否定するのは人間らしくないから多少はいいのだが、それで身を持ち崩したら本末転倒である。アカウントを分けていると人格まで分裂してくるようで大変だ。だからそれはやめておく。

タイトルにある配信欲求と見栄を張る気持ちは書いたし、あと完璧主義というのは「0から始めようとする」ことで、ここから後半。

サブカルへの無知と健康への危機感と焦燥感。

これも結局Vtuber見てると痛感することなのだが、東海オンエアを見てても時々思う。自分はサブカルを知らなすぎている。これは「知識とは何ぞや」という話だ。私は自分で言うのもなんだが割と頭いい方の高校に通っているし、頭いい方の大学を狙っている。だがしかし自分の知識に全く自信がない。特に学校外の知識について。インターネットとかエンタメとかは詳しいんだけど、漫画やアニメが弱すぎる。ワンピースもミリしら、スラムダンクもミリしら、進撃の巨人も水星の魔女?もSAOもスライムの転生どうこうもFateもリコリコもジョジョドラゴンボール遊戯王も何にも知らない。エヴァガンダムも知らないしもののけ姫魔女の宅急便も見てないし新海作品も君の名は以外見てないしとにかく何も知らない。無知っ子。世の中はこんなにもサブカルで溢れているというのに、五等分の花嫁もまどマギも何にも知らない。自分結構鬱憤が溜まっていたみたいだな、知らないことを自覚させられることに。でも自分家はアニメ見る家庭ではないし、自分もそれまではアニメ見る人間ではなかった。親はアニメ→気持ち悪いという認識があるらしく、見てる自分も気持ち悪いと思われるんだろうと思って見ていなかった。でもここまで皆が知っていることを知らないと恥ずかしくなってくる。それでいい大学に入ったところで、周りと何の会話も出来ない人間、面白い?当然ゲームも知らない、ポケモンドラクエカービィマリオもやったことない、FPSなんて全くない。自分の守備範囲狭くないか!?と思ってしまって、でも今受験生だからなと自制して、息抜きにYoutube見て話についていけなくてあああああという日常を送っている。もうダメかも知らんね。
受験が終わったらサブカルたくさん触れようと思っているのだが、受験終わってからやることが多すぎてどうなのか。配信したいし漫画もアニメも映画も見てギター始めて歌ってバイトして。勉強は!?
勉強なんてしてなんの意味があるのかと思う。こんな疑問厨房がするような疑問だが、未だに思う。勉強なんて楽しくなきゃマウントのためにするだけだと思う。本気でそう思う。高校教師見てるとそうとしか思えない。「こんなことも知らないの」「こんなことも分からないの」と。大学行ったって同じだろう。知識のひけらかし大合戦。そもそも楽しくないのだ。数字こねくり回したり箸にも棒にもかからないような細かい知識入れ込んだり。でも楽しもうと思わないと楽しめないよな、と自分を奮い立たせることにする。受験で必死になって勉強を全く楽しめていない自分に気がついた。世界史も日本史も多少は楽しさがあったはずで、その気持ちが今0になっていることを知ったから、まずは楽しむことから始めようと思う。楽しまないと力が出ない。プレッシャーを感じる必要はない。誰よりも楽しく勉強出来ればそれでいいのだ。勉強は意味無いと思うし誰もがやるようなことではないと思うけど、楽しもうとする努力、気持ちの切り替えはこれからの人生にも役立ちそう。
今の勉強のスランプ的状況に対して自分で一旦の結論を出すことが出来た。焦燥感に駆られるばかりの毎日だが、楽観的に行こうと思う。ずっと共テのマークを選ぶ頭になっていた気がする。

さて、あと健康。筋トレしたいけどしたくない。でもしなければいけないぐらい体が終わってる。一生椅子に座っているのでどうにかしたい。基本やる気はない。

書きたいことは書けた気がする。頑張っていきましょー。